一丁のリボルバーによって翻弄された人間たち、

 

 

 

舞台

リボルバー〜誰がゴッホを撃ち抜いたんだ?〜』

を観劇してきました。

 

 

原田マハさんの原作リボルバー

先に履修してから舞台に臨んだので、

原作との違いも合わせて舞台の感想を

つらつらと吐き出して行こうと思います。

 

まずは、

7/10~8/1までの東京公演、

8/6~8/15までの大阪公演、

マチソワ合わせ合計37公演。

 

本当にお疲れ様でした!!!!!!!!!!!!!!

 

 

安田くんのお芝居だいすき芸人として

また彼の生のお芝居の熱を感じることが

できたのはとてもとても幸せでした。

観劇していない日でも、安田くんが舞台に立って

今日もお芝居をしているんだという事実に

励まされて生きておりました(激重オタク)

 

舞台ってナマモノなので、

セリフの間やトーン、アドリブなど、

1公演として同じ公演はないと思うのですが、

私が観劇したのは8/9の大阪公演のみなので、

あくまでも該当公演で私が観た主観的な感想を

消化していきたいと思います。

 

 

❶舞台だからこそ生まれた臨場感とメッセージ性

 

 

 

まず、これはそうなるだろうと思っていたのが、

原作と大筋はもちろん同じだったけど、

展開や結び方が違っていたこと。

 

 

先述の通り私は原作を履修してから

舞台に臨みました。

 

一幕が終わってからは

『これはもしかして原作読まずに来た方が

新鮮だっただろうか…』

とも思ったのですが、

全て観劇し終えた頃にはそんな考えもなくなり、

むしろ原作との違いをタイムリーに感じることで

『ここをこう魅せるのか!』

と新たな発見を同時に感じることができたので

とても楽しかったです。

 

 

 

 

(⚠️以下原作のネタバレを含みます⚠️)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

リボルバーを持ち込むのはサラ・ジラールの娘のクロエ。

 

21世紀と19世紀の出来事を交錯させ、

21世紀の人間が追体験をしている。

 

③最終的にリボルバー

オークションにかけられているような描写がある。

 

 

大きくはこの3つが、

明らかに原作と異なる演出でした。

②においては、

小説では表現しづらいでしょうから仕方ない気もします。

 

 

原作で、冴が勤めるCDCに

錆び付いたリボルバーを持ち込むのは、

画家のサラ・ジラールです。

サラは結婚しておらず、娘もいません。

母から、今まで語り継がれてきた歴史を

ひっくり返すような真実と共に、

リボルバーの在処を知らされたサラは、

それをCDCに持ち込むのです。

 

 

物語はそこから始まり、

冴やギロー、JPらがゴッホの足取りを歩みながら

史実と照らし合わせ、そのリボルバー

本当にゴッホを撃ち抜いたものなのかを

解明していく展開となっています。

 

冴たちが真相を解明していくことが

ベースにあるため、

②であげているように原作は

21世紀主軸で展開されます。

 

原作にてゴッホがしっかりと登場するのは

物語の終盤、

ゴーギャンが真実を回想し

独白するところからです。

 

 

しかし舞台では、21世紀にいるはずの冴と

ゴッホが話をしていたり、

ギローたちもゴッホゴーギャン、テオの3人と

同じ空間に存在する、

クロスオーバー的な描かれ方でした。

 

 

21世紀と19世紀の場面転換の前に、

現実的に考えて有り得ない

ゴッホと冴の会話があったり、

一幕終盤やラストシーンにおいて

全員が同じ空間にいたり、

それぞれの時代が交錯し、

最後には時代がひとつになる。

 

舞台だからこそ体現して面白くなるし、

スっと受け入れられる演出。

 

このような演出によって、まるで私達も

その場にいて、疑似体験しているかのような

感覚になれました。

 

 

また、ラストシーンにて、まるでリボルバー

オークションにかけられているような

場面があったのですが、

 

そのオークションのシーンで

『そのものの価値を決めるのは自分次第だ』

真価を問うような台詞がありました。

 

 

原作において、

リボルバーを実際にオークションにかけるような

描写はないのですが、その台詞を聞いて

これがこの作品を通して

伝えたいことの1つなんだろうと思いました。

 

 

また、一幕の序盤でCDCがオークションを

開催しているシーンがあるのですが、

そのシーンと、

ラストのオークションのシーンにおいて、

まるで私たち観客が

オークションの客であるかのように

キャストが振る舞うのです。

 

観客席に座る自分たちは

オークションの客であって

ゴッホゴーギャンとテオの3人を

見守るものである。

自分たちも物語に構成されている。

 

そんな感覚が芽生え、臨場感が際立ちました。

 

まるで歴史的な瞬間を、

冴たちと一緒に覗き見しているような。

 

そして、

リボルバーそのものの意味を教えてくれたこと。

 

こちらも原作にはありませんでした。

厳密に言うと、

原作には必要なかったのかもしれない。

 

リボルバーは弾倉が回転式なっていて、

それにより

連続して弾が撃てるようになっている』

と台詞により説明が入り、そこから

『巡り巡って人の手に渡る』というような意味を

持つものなんだと私たちに教えてくれました。

 

(台詞ちょっとうろ覚えです、すみません…)

 

一丁の錆び付いたリボルバーを中心に、

時空を超えて翻弄される人々。

それを表現するかのように舞台の真ん中に

リボルバーが置かれている。

 

舞台だからこそ意味をなす演出と

台詞だなあと思いました。

 

原田マハさんは、『たゆたえども沈まず』という

日本人画商の林忠正ゴッホ兄弟が

互いに知り合いであったら、というよう

なフィクション作品を書かれており、

いつかゴッホゴーギャンの関係を描きたい

という思いを持っていらっしゃったようです。

 

そんな中、今回の舞台脚本を書いてみないか

という声がかかり、

戯曲を書くのが初めてだったマハさんは、まず

小説を書き、そこから戯曲にされたということを

パンフレットで語られていました。

 

最初に書き上げられた脚本は

かなり長尺のもので、

そのまま上演すると4時間を超えると指摘があり

(実際のリボルバー上演時間は2時間20分)

そこからかなり削ったそうです。

 

行定勲さんにも、

『小説で描けなかった部分を演劇にする』

と仰っていたようです。

 

そのため、最初に舞台を観劇してから

小説を読むという順番でも

もちろん楽しめるような内容だったし、

小説を読んでいないとわからない!というような

ところはなかったと思います。

 

ただ、ゴッホゴーギャン

過ごした地域の名前や、2人の関係性、

ゴーギャンゴッホに対する気持ちの詳細を

小説で知ることができたので、

台詞がスっと入ってきやすかった

という印象はあります。

 

 

フィンセント・ファン・ゴッホを演じた安田章大の覚悟

 

 

私は観劇を終えてすぐ、

まるで言葉が出ませんでした。

 

Twitterのオタ垢で繋がってるフォロワーちゃんと

一緒に観劇したのですが、

舞台が終わり会場を出た頃、2人して

 

『なんか………………なんか………………

わからん………………………

とにかくしんどい………………………』

としか言えなかった。

 

いやまあ推しの現場後のオタクって大概

「ハァ……………しんど……………

すき……………結婚しよ…………」しか言わん。

 

 

そういう一般的な(一般的な?)

現場終わりのオタクの感情では

決してなかったのです。

 

『しんどい』要因は舞台の内容ではない。

俳優・安田章大の覚悟を

目の当たりにしたからでした。

 

リボルバーを観劇した方の感想で

1番多かったのが

『舞台に立っていたのは安田くんではなく、

フィンセント・ファン・ゴッホだった』

というものだったと思う。

 

もちろんその通りでした。

あの2時間20分の上演時間のどこにも

安田章大はいない。

 

それは今までの彼の舞台においてもそうだった。

私が観ることが叶わなかった舞台においても

そうだっただろうと思っています。

安田くんは何にでもなれる人だから。

 

3回のカーテンコール。

そのどこにも安田章大はいなかったんですよね。

 

ずっとフィンセント・ファン・ゴッホのまま。

役を抜いていなかったんですよ。

 

きっと、この舞台を観劇した多くの人が

同じことを思っただろうと思います。

 

ゴッホがまるで、

21世紀のオークション会場にいる

私たちにお辞儀をしているかのような。

 

そんな彼を目の当たりにした瞬間、

彼はとんでもない覚悟を持って

フィンセント・ファン・ゴッホを演じたんだ、

と痛感しました。

 

 

髄膜腫の手術の後遺症により、

強い光を見続けると立ちくらみが

してしまうことがある。

それなのに安田くんはずっと裸眼で、

舞台の照明なんて熱いくらい明るいだろうし、

安田くんにとってはかなり

キツいんじゃないだろうか。

 

それに、安田くんはここ1、2年でかなり痩せた。

ちゃんと食べてるんだろうか。

 

大好きなアイドルだから、

そんな、心配なことは沢山あった。

けれどそのどれも、

安田章大の覚悟を前にして

簡単に口に出来やしなかった。

 

『愛を心配でスルーしないで』

 

安田くんの言葉を今でも

頭の中で反芻することがある。

私たちはたぶん、

安田くんの覚悟を

心配でスルーできなかったんだと思うし、

それをしちゃいけない気がしたんだと思う。

 

実際に安田くんは、ずっと裸眼で演じていたし、

薄い布の間から見えた胸は

以前よりも骨ばって、痩せていました。

そのどれもが安田章大という俳優の

覚悟だと思ったのです。

きっと選ぼうと思えば、サングラスをかけて

稽古することも、舞台に立つこともできた。

でも彼はそれをしなかった。

 

『タブロー!

この胸にはタブローしかないんだ!』

という台詞を、まるで台詞ではなく

安田くんがゴッホを演じる上で自然と出てきた

言葉みたいに感じられたのも、

耳を切り落とす際の断末魔のような叫びも、

目の前にいるゴーギャンやテオを見ているようで

ずっと遠くを見ているような目をしていたのも、

 

全て安田章大という俳優が、

全力でフィンセント・ファン・ゴッホ

向き合ったからだ。

 

なんて俳優だ、と恐怖すら覚えた。

憑依型だとは思ってはいたけれど、

本当に取り憑かれたかのようだった。

 

だからと言って、最初から自然とゴッホ

演じることができた訳ではないと思います。

安田くんなりにゴッホを理解し、

自分の中に落とし込んで

積み上げてできたものだと思っています。

 

以前雑誌のインタビューで、

「見てくださる方に打撃を与える、傷を付ける」

という

言い方を安田くんはしていましたが、

まさにゴッホを演じた安田くんに付けられた傷を

こっちはまんまと引き摺りまくりました。

 

 

ゴッホが亡くなったのは37歳のとき。

今年で37歳になる安田くんが

ゴッホを演じることとなったのは、

何かの縁だろうと思っていたけど、

なんだかそれが

確信に変わったような気がしました。

 

 

観劇を終えて

 

1年以上前からこのコロナ禍で

沢山のイベントやライブ、

舞台などが中止にされてきて、

今回本当に久しぶりに生で舞台を観劇しました。

 

こんなに私の心を動かす演劇が、

こんなに役者やスタッフが

本気で挑んでいる演劇が、役者たちの覚悟が、

 

あんなにも簡単に「不要不急」と

切り捨てられた。

 

確かに不急かもしれないけど、

不要だなんて今後一切、

誰であろうと言わないでほしい。

 

そりゃあ

人の命と天秤に掛けられたら誰も何も言えない。

でもそんなの狡い。

人の命は大事だけど、

それと天秤にかけられたものに

命を懸けて挑む人間がいる。

 

何かを切り捨てなきゃ何かを守れないなんて

残酷だ。

 

以前のように、舞台観劇は

当たり前にできることではなくなった。

 

そんな中今回私たちがリボルバーという舞台を

無事に観劇できるように尽力された

関係者の方々、

この状況で身体に配慮しながら稽古をして

本番に挑んでくださったキャスト、

スタッフの皆様、会場のスタッフの方々、

皆様に感謝の気持ちでいっぱいです。

本当にありがとうございました。

 

きっとリボルバーという舞台を上演できたことは

この状況で多くの人の希望になったと思う。

何かを守るためにそんな希望が

犠牲にされるのはもう見たくはない。

 

こんなにも人の心を動かすことのできる舞台や、

コンサートやイベントが犠牲にならないように

守れるならば、いくらだって我慢してやる。

 

 

 

 

と、

デカすぎる感情が芽生えました。(デカい)

 

 

 

 

安田くん、キャストの皆様、

スタッフや劇場関係者の皆様、

本当にお疲れ様でした。

 

舞台後半戦にかけての大阪の天気予報は雨。

 

『フィンセントを演じ終えるまで

こちらはずっと雨かもしれない』

『これは何の意味を示唆しているのだろう』

と安田くんは言っていたけど、

千穐楽が舞台終わる頃に晴れたのは、

安田くんに降りたフィンセントが彼方の楽園に

戻っていくためかもしれないな。

 

意味なんてないのかもしれないけど、

どうしてもそこに意味を持たせてしまうのは、

きっと私もいつの間にか、

あの錆び付いたリボルバーに翻弄されたからか。